かっぱ

水と緑と、そして都市との調和を目指して

牛久沼について

 牛久沼は6.52平方キロメートル・平均水深1~2メートルで、市の西方に位置し、筑波・稲敷台地と猿島・北相馬台地に囲まれた比較的小さな沖積低地沼で、本土地改良区の用水源として長く利用されています。また河童伝説、金龍寺の伝説やうな丼発祥の地としても有名です。


ここで、牛久沼にまつわるお話を紹介します。


牛久沼にまつわる伝説
金龍寺

 龍ケ崎市若柴町にある金龍寺には牛の尻尾が祭られています。この尻尾はこの寺の怠け者で大食いの小坊主が、住職の忠告を聞かずに毎日大食いを続け、ごろごろとしているうちに、とうとう尻尾が生えて牛になってしまい、住職が尻尾を握って止めましたが、尻尾を切って沼に身を投げてしまった時のものとされています。

 この出来事以降、牛を食った沼として「牛久沼」と呼ばれるようになりました。

 また、この話が「食べてすぐに横になると牛になる」の原点とも言われています。


牛久沼の河童伝説
かっぱ

 牛久沼には畑を荒らしたり、子供を溺れさせたりするいたずら好きの河童が住んでいました。村人達は懲らしめの為、昼寝をしていた河童を捕まえ、沼のほとりの大きな松の木に縛り付けました。

 二度といたずらはしないと泣いて訴える河童を哀れに思った村人は、この河童を沼へと返しました。

 それ以来、河童は悪さを止め沼の周囲の葦を刈り取るといった手伝いをするようになったという伝説が残っています。


 この河童を縛り付けた松の木は、河童の絵で有名な明治・大正期に」活躍した文化人「小川芋銭」の晩年の住居である「雲魚亭」の近くに現在も「かっぱ松」として残っています。


うな丼発祥の地
うな丼

 牛久沼がうな丼発祥の地だとはあまり知られていません。

 昔、江戸は日本橋の大久保今助が故郷の水戸へ向かう途中に、牛久沼の渡しの掛茶屋で好物のうなぎの蒲焼と、どんぶり飯を頼んだ。

 だが、食べる直前に「船が出るぞ」と声がかかり、慌ててどんぶり飯に蒲焼を皿ごとかぶせ船に持ち込んだ。

 船を降りた今助が土手に座り食べたところ、熱いご飯に蒸された蒲焼は柔らかくなり、タレはご飯に程よく染み込んでいて、今まで味わった事がない美味しさでした。

 江戸へと帰る際、今助は再び茶屋に立ち寄り、その時の話からうな丼を作ってもらい、後に茶屋でうなぎ丼を売り出したところ大当たりとなり、牛久沼の名物となりました。


これが『うな丼』の始まりと言われています。